旅は私の人生の選択において大きなきっかけとなってきました。今回は、そんな私にとっての旅をご紹介したいと思います。
初めて海外に行ったのは、高校時代。当時の担任の先生の推薦で、県の国際交流派遣団の一員として、姉妹都市を結ぶ中国浙江省にホームステイをしました。95年の当時の中国は、まだまだ発展途上国と呼ばれる状況であり、扉もない溝のようなトイレで座り込んで用を足すシーンは衝撃的でした。一方で、街中の至る所で工事をしており活気溢れる様子であったこと、カタコトの英語ながらホームステイ先で温かく迎えられ友情を育んだこと、異国での心が通い合った感動は忘れることができません。いつかは海外、中国で働きたいという想いがその時芽生えたのでした。
大学に入学すると、私は新歓コンパと呼ばれるサークルや部活の案内をするイベントに参加しました。日焼けした筋肉質の先輩に、「大学から始めるカレッジスポーツ、日本一を目指せる」という言葉、そして一度だけでいいからと誘われ参加した試乗会で川の上を滑るように走るボートの気持ち良さに魅了され、私は体育会漕艇部(ボート部)の門を叩くこととなりました。(当時、「愛という名のもとに」というトレンディードラマがあり、そのメンバーが大学ボート部での仲間という設定もあり、何故かなんとなくオシャレなイメージがあった)大学から離れた淀川にある合宿所で週5日間の合宿所生活。授業に出ずとも、先輩方から代々受け継がれるテスト過去問があるということもあり、私の大学生活はボート三昧となりました。バイトやサークル、飲み会など自由な大学生活を謳歌できるはずなのに、10時消灯、5時起床の生活。他の同期が何人も退部していくなか、私も何度も辞めようと思っていたはずが、2回生となり後輩ができ、3回生となり自分のスキルの未熟さや怪我に泣かされながら先輩の背中を追い、4回生となると副主将としてチームを盛り上げ、引っ張る存在となっておりました。最後はトップクルーにてインカレに出場し、あとわずかコンマ数秒、入賞に届かなかった悔しさを感じながら引退を迎えました。ボートでトップを目指すという旅路はここで終了しましたが、ここで出会った同期や先輩、後輩は、寝食を共にし共同生活を過ごした、まさに同じ釜の飯を食べた仲間。彼ら、彼女らとの交流はその後も一生続く、友人関係を得ることが出来ました。
3回生の冬になると多くの同級生が就職活動を始めました。国立大学卒の体育会系出身という先輩方を見ると、銀行や商社に就職する方々が多くいらっしゃいました。当時は、まだ海外留学やインターンなどをする人は少なく、私自身も将来何をしたいのかを真剣に考えていたタイプでなくボート三昧だった私。何をすればいいのか、何に向いているのかわからなかった私は、このまま社会人になることに漠然とした不安を感じ始めます。もっと自分の知らない体験がしたい。自分が何に向いていて、何がしたいのかを知りたいということで、ボート部を引退したら、今までと全く違うことがやりたいそう思うようになりました。
当時、日テレ系のバラエティ番組で電波少年という番組がありました。非常に画期的な番組で、猿岩石というお笑い芸人がヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するという企画でした。道中は人に騙されたり、危険な状況に巻き込まれながらも、そのような状況を乗り越える番組は、当時の私にとっては非常に刺激溢れるワクワクした世界に映りました。また、ユーラシア大陸を実際に横断した旅行小説があるということで、手にした小説は「深夜特急」。ノンフィクション作家沢木耕太郎氏によるバックパッカーのバイブルのような小説です。まだ見ぬ世界に思いを馳せ、バックパックひとつで世界を回る一人旅を決行したいと思いました。2000年当時は、スマホも無ければ、現地情報は、「地球の歩き方」や「ロンリープラネット」などの分厚い旅行本を片手に情報を入手していた時代。両親に1年間休学したいことを告げると、勿論猛反対を受けました。海外留学ではなく、バックパッカーの貧乏放浪旅行です。部活の合間をぬって、家庭教師や水泳のインストラクター、引越し配送や夜間の物流会社仕分けなどのアルバイトで稼いだわずかなお金で、ユーラシア大陸を横断する。有り金がなくなったら日本に帰国する。今自分の子供がそのようなことを言い始めたら絶対に反対するでしょう。しかし、当時20歳を過ぎたばかりの私は無謀で怖いもの知らず、挑戦心に溢れていました。私は何度も両親の説得を重ね、やっと了承をいただきました。 2000年8月のインカレ終了すると、9月には神戸港から中国天津に向けて燕京号(1990年〜2012年迄運行)で出発したのでした。まさかこのあと、自分の人生を価値観を一変する出来事があるとは、その時は想像もしていませんでした。(旅とわたし②に続く)